11月の初めに志賀先生のお宅へ伺いました。
福田先生とご一緒に11月の支部例会の件について体調の様子など伺い29年度
最後の例会に参加頂けるかどうか、支部の最高作品賞のことなどをお話しして
いつも通り笑顔で支部の活動についてご指導・助言などを頂き、今でも「写真
をみる目は誰にも負けないぞ!」と目を輝かせ、笑顔で熱く語る先生の姿を見て
ほっと安心して帰宅したのはつい先日でした。
それなのに、お元気で過ごされているものとばかり思っていましたが,12月3日
早朝、息子さんの洋さんから「今朝父が亡くなりました」との報を聞き一瞬言
葉が出ませんでした。突然の訃報に頭が混乱し先日伺った様子が堂々巡りでし
た。しばらくしてわれに返り、悲しく悔しくて残念でならない思いを胸にお悔
やみを申し上げ電話を切ったのでした。
あぁなんと世の中は無情なものなのでしようか。今までの先生との温かい交流
や指導を受けた日々の数々の思い出が幾度となく去来しました。
奥様をはじめご家族、ご親族の皆様のお悲しみは如何ばかりかとお察しするの
みでありました。今は只ただ支部会員一同と共に、先生の心からのご冥福を願
わずはおられません。
先生はオホーツク沿岸の興部の町に生まれ、早くしてお父様をなくされ一家を
支えながら厳しい冬の流氷と共に育ち、トラックいっぱいの秋サケを積んで旭
川へ。その途中上川の越路峠で振り返り仰ぎ見た大雪。初冬の雪をかぶり赤く
染まる山に魅了されその大雪の山の虜になってしまったそうであります。
それ以来、上川に通う数年、そして定住。今のようにロープウエーもない中で
50キロに及ぶ撮影器具食糧を背負い、自分の足を頼りに大雪の山と戦い続けた
のでありました。風と寒さと吹雪、幾度となく死を覚悟することもあったとの
こと、筆舌にしがたい経験と苦難の中で、一瞬の晴れ間の輝きの美しさ、如何
にこの大自然の荘厳で素晴らしさをカメラに収めるかを迷いながらの日々だっ
たそうです。
そんな中で、いつも優しく帰りを迎えてくれる奥様の笑顔があり、疲れも幾度
となく癒されてきたそうであります。そして、ついに志賀先生独特の表現方法
を突き留めたのだそうです。「自然も生きている」ことを悟り、愛情もって自
然を見つめ、心の目で捕え表現する日本でも数少ない北海道をいや日本を代表
する写真家として認められるようになったのであります。
その後は、皆さんご存じのように数々の賞に輝き、地方に住みながら写真を発
信する数少ない日本を代表する偉大な写真家としてその地位を確立し、多くの
人々との「出会い」でもその名を高めたのであります。
また、昭和44年、先生は北海道写真協会旭川支部の創設者として初代支部長、
顧問として今日の日まで50年間、写真のプロとしての傍ら写真道展審査会員と
してまた、旭川支部の顧問として上川町から旭川に40キロの道を毎月通い例会
の指導・助言に携わってくださり、今ある旭川支部の礎を築くとともに支部の
向上発展に大きく貢献していただいた功労者でもあります。
平成30年6月1日には、創立50周年記念式典・祝賀会を盛大に開催する予定で
進めていた矢先でありました。当日を共に迎えご苦労を労いながら楽しく有意
義なひと時を語り合えなくなってしまいました。
先生のいない式典はあまりにも悲しすぎます誠に無念であり残念でなりません。
会員の皆様と共に、今まで半世紀もの長い間温かくご指導ご助言を頂いたご苦
労に、心より感謝しつつご冥福をお祈りいたします。(記:平成29年12月19日)